スポーツの価値

「野球の価値」

 しばしば「スポーツの価値」という言葉がメディアやスポーツ庁など関係するところから連呼されていますが、かつては「スポーツの価値って何?」とよくわからないでいた。

 ところが、野球障害について医学以外の視点から考えるにつれ、「少なくと昭和の時代から日本野球には価値があった」と知ることになった。

 それは、「野球を通じてよき人材を育成するという共通認識」。

 かつては、「野球をやっていることは優れている人材とみなされていた」。「監督や先輩からの命令には忠実に従い、期待された以上の結果を出すために取り組む姿勢」、「厳しい練習に耐え、大きな壁にぶつかっても繰り返しチャレンジするというレジリエンス」、「規律、尊敬、正義」。

 このようないわゆる「体育会系」といわれる昭和の時代で優れているという人材を生んできた。むしろ、その構成人数の多さから見ると、「体育会系=野球会系」といっても良い。会社の上司の命令を忠実に実行し、昭和からバブルまでの時代を引っ張ってきたのが体育会系。

 しかし、そのような体育会系の思考はいくつかの問題をはらんでいた。例えば、「パワハラ」。整形外科の外来には、「腰痛」という症状を訴える「抑うつ状態」の患者が来る。「上司からのパワハラが原因」ということはよくあった。また、一緒に入部した選手が、さまざまなプレッシャーでやめていった。これも企業の視点でいうとまさにパワハラ。

 このような問題に対して、「体育会系はダメ」という風潮だけではなく、国もハラスメント対策としていろいろな手段を講じ体育会系という思考は社会悪となった。例えば、「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案に対する附帯決議(平成30年6月28日参・厚生労働委員会)」などは、その一例である。

 ある人事の方に聞くと、野球出身者の評価が低い傾向にあるという。例えば、主体性という項目。主体性とは、どんな状況においても「自分の意志」や「判断」で責任を持って行動する態度や性質のこと。 つまり「主体性」がある人は、何をやるかは決まっていない状況でも自分で考えて、判断し、行動するということになる。

 ところが、野球出身者は、監督から選手への命令で動く「中央集権型組織」の影響が強く、「指示待ち」の傾向が強いらしい。一方、ラグビーなどは試合が始まった後は指導者の判断を仰ぐこともできたいため、「自律分散型組織」の育成を受けて主体性が高いとのこと。この違いのため、野球選手は若手の間は黙って「ハイハイ」と仕事をこなすが、リーダーになった後は「中央集権型組織の思考」が抜けず、「おれが決めたのだから黙ってやれ」とパワハラ系のリーダーになりがちとのこと。

 新しい時代のリーダーとは、部下と呼ばれる方々とフラットな人間関係を築き、必要な情報をティーチングし、部下と呼ばれる方の話を質問や承認というコーチングの手法で尊重し、さらにパートナーシップという手法で取り返しのつく失敗を経験させることができる人材とのこと。

 野球障害の問題についてみても、その本質は指導者と保護者、OBなど関係する方々が、投球数、投球強度、投球動作、コンディショニング、個体差などに関する必要な知識を学び、自律分散型組織を構築してこれまでより個を尊重することをすれば、最低限に抑えられるはず。むしろ、投球数制限のルール化という現状では十分に効果が証明されてなく、かつ包括的でない課題解決型思考では、課題を解決するには程遠い。

 しかしながら、これまでの日本野球が行ってきた「野球でよき人材育成をする」という文化は、他の国々では真似できない。なぜなら、アメリカでは家庭、学校、地域、宗教、スポーツなどという5つの組織が人材育成を担当してきたが、日本では低所得の家庭が増え、学校は進学実績に重きを置かざるを得ず、地域の指導は疎まれ、宗教の影響は少ないため、スポーツの人材育成への貢献度が大きい。また、日本はこの人材育成を、ほぼ無償でやってきた。すなわち、日本野球がよき人材育成の手法を学び、新しい方向に「ハンドルをひねるだけで」、大きな成果を上げられると思うのである。

 さて、よき人材育成とは何か?私見では、昭和の時代の日本野球の人材育成にも良いところはたくさんある。例えば、レジリエンス。壁にぶち当たっても立ち上がる能力を日本野球は育成してきた。また、規律、尊敬、正義という言葉も同じように日本野球がやってきた。これに新しい時代の人材育成の手法を加えることで、野球の新しい価値が想像されるだろう。

 目指すべきは、このような包括的な日本野球の進歩。これは信頼できる日本の再構築につながり、「スポーツの価値」となりえるものと思う。